takaoina

高尾稲荷社 箱崎界隈
Takao inari shrine, Hakozaki

平成十八年 文月
July 2006

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高尾稲荷社について

万治二年十二月(1659年)隅田川三又 現在の中洲あたりにおいて 仙台侯伊達綱宗により遊舟中にて吊し斬りにあった 新吉原三浦屋の遊女高尾太夫(二代目高尾 野洲塩原の出)の遺体がこの地に引き揚げられ 此れより約八十米隅田川岸 旧東神倉庫 今の三井倉庫敷地内に稲荷社として祀られ 古く江戸時代より庶民の信仰の対象となりかなり栄えておりました
明治維新 明治五年当時 此の通りを日本橋永代通りと謂われ 最初の日本銀行開拓庁 永代税務署等が建築にあり 高尾稲荷は只今のところに移動し おとづれる人もおおかったが 昭和二十年三月二十日戦災により社殿は焼失いたし 時代と共に一般よりわすれられ 年々と御参詣人も少なくなってしまいました
時折り町名変更につき 当町会名保存と郷土を見なをそうとの意志により 高尾稲荷社を昭和五十年三月再建工事の折り 旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋骨壷が発掘せられ 江戸時代初期の重要な史跡史料として見直されることになり 数少ない郷土史の資料を守るため 今後共皆様のご協力をお願い申し上げます

日本橋区北新堀町会

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高尾稲荷社の由来

 万治二年十二月 江戸の花街 新吉原京町一丁目 三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて艶名一世に鳴り響き、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。
 生国は野州 塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九歳であった。
 その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され 大金をつんで身請けされたが、彼女には既に意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ 川中に捨てられた。
 その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構えていた僧が居合わせて引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。
 高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り 高尾稲荷社としたというのが当社の起縁である。  現在この社には、稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。
 江戸時代より引きつづき 昭和初期まで参拝のため おとずれる人多く、縁日には露店なども出て栄えていた。


懸願と御神徳

 頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就の御神徳があります。  懸願にあたり この社より櫛一枚を借り受け、朝夕 高尾稲荷大明神 と祈り、懸願成就ののち 他に櫛一枚をそえて奉納する習わしが昔から伝わっております。


高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
君は今駒形あたり時鳥(ほととぎす)
辞世の句
寒風にもろくも朽つる紅葉かな

昭和五十一年三月

箱崎北新堀町々会

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Charlie K.
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